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Note

Hiroyuki Matsugen Matsumoto

松元 裕之

1964年宮崎県生まれ。長く広告業界でCMプランナー、映像プロデューサーとして従事。主な仕事に、BMW、オージー・ビーフ、Red Bull、デロンギなど。2010年ハワイ・マウイ島の日系の子供たちが通う「カンシャ・プリスクール」のサポートを目的とした特定非営利活動法人NAC-Jを設立し代表に就任。2012年に制作したドキュメンタリー映画『Go for Broke! ハワイ日系二世の記憶』でホノルル・フィルム・アワード<ベスト・オブ・ハワイ>受賞。マウイ映画祭では公式セレクトされ同映画祭でワールド・プレミア上映。沖縄にも造詣が深く、共著に『オキナワドリーム』『沖縄ロハス』他多数。都城市PR大使「みやこんじょ大使」も務める。

Go for Broke! ~ハワイ日系二世の記憶~Memories of Hawai'i Japanese "Niseis"
 予告編

「ハワイの服」となると、日本人にはどうしてもハワイアンシャツ(アロハシャツ)が思い浮かぶかもしれませんが、ハワイアンシャツよりも古く日系人と関わりのあった衣服が「パラカ」です。日本からの移民は、当初はさとうきびやパイナップル畑での契約労働でした。その作業着としては、当初は日本の木綿の着物や股引きをそのまま利用していましたが、さとうきびやパイナップルの葉先はノコギリ状で鋭く、頻繁に怪我をするため効率的ではありませんでした。その後、先に移民した中国人が着ていた苦力用の上着とズボンや、絣などを重ね着したりと色々と試行錯誤をしますが、やはりどれも農作業には向かないものでした。そこで人気となっていったのが「アヒナジャケット」です。これは、いわゆるアメリカで作られたブルーデニムのことであり、重さや丈夫さで鋸状の葉先から身を守るには最適でした。しかし当時のハワイでは高価なものですから、そうそう購入できるものではありません。さらにこのころの日本人移民労働者に人気のあった布地は、「センスジ」や「マンスジ」と呼ばれた木綿の布地で、軽めのキャンバス地ぐらいの重さと丈夫さがありました。しかしこれとて決して安価なものではありませんでした。その後、日本人移民に人気となったのがパラカです。もともとイギリス海軍やアメリカ海軍が着用していた軍用のアウター(Frock)の生地が丈夫で、アヒナよりも安価ということでハワイに流入してきました。しかし当初は、アヒナもパラカもシャツではなくジャケット形の上着として着用されていました。そこに、1920年代に入って沖縄系移民の「ARAKAWAS」がシャツとしてのパラカを製造販売し、軽くて丈夫なことや比較的安価なこともあり、日本人労働者の間で瞬く間に人気となりました。一部では「日本人移民がパラカを着せられてルナ(監視役)から鞭打たれたのだから、日本人はパラカを着るべきではない」という理解をされている方もいるようですが、1885年から始まった官約移民以降、奴隷のように扱われた日本人移民労働者も、その数の多さを生かして待遇改善を訴えたストライキを何度も起こし、1920年代に入ると随分と待遇も改善されてきました。そして何よりも、1900年にハワイにアメリカの法律が適用されるようになると、奴隷のような労働契約の移民は禁止されています。また1920年代は、世界の砂糖市場にも変化が訪れ、耕主も賃金労働で一から生産するのではなく、耕作地を貸し与えてさとうきびを買い取る小作農に変わりつつある時期でもあります。実際、本作で証言する「ホワイティ・ヤマモト」の父も、4エーカーの土地を耕主から借り受け自作農をしていたと証言しています。日本人移民は常に奴隷のように働かされ、パラカを着せられた日系労働者は鞭で打っても良いなどというのは、ステレオタイプの誤った認識です。なお、このパラカシャツによって西洋のシャツを着ることを覚えた日本人移民は、すでにハワイの土壌に合わずに着なくなった着物や、布団のカバーなどを利用し、パラカシャツを見本にシャツを仕立て、これがのちのハワイアンシャツになっていったと考えられています。なお、女性の労働着となるとまたちょっと違ってきますが、それはまたの機会に。

 

The Japanese remembers a Hawaiian shirt (Aloha shirt) when it becomes "Hawaiian clothes". However, it is older than a Hawaiian shirt, and emigration from Japan and the clothes which there was of the relation are "Palaka".The emigrant from Japan was contract labor in a sugar millet and the pineapple field.The work clothes just used a kimono and longjohns of the Japanese cotton. However, the point of a sword of a sugar millet and the pineapple was not effective to be hurt with form of saw frequently keenly.Afterwards "Ahina" denim became popular, but was not cheap. A candlewick called "Sensuji" and "Mansuji" was popular among Japanese emigration labor. This was like the canvas. However, this was expensive, too.Therefore relatively cheap British naval frock became popular. Arakawa of the Okinawan emigrant produced Palaka shirts and sold it and became popular among Japanese emigrants. It is the 1920s.There is a person of the wrong recognition in the Japanese.Because "the Japanese emigrant who wore Palaka was whipped in slave workers, you now Japanese should not wear Palaka".The Japanese worker caused a strike many times from the before 1920s when Palaka was popular. And service was improved a little.And when it comes to the 1900 American law is applied, the immigration of the labor contract, such as the slave is prohibited.The world sugar market was changing, too. Therefore the farmers who leased land to a tenant increased.It is not often applied to a Japanese worker after the 1920s when は, Palaka which "the Japanese emigrant who wore Palaka is a slave worker, and were whipped" became popular.The Japanese emigrant who was used to a Western shirt with Palaka shirt processed the kimono which Japanese emigrant did not wear anymore and prepared a Hawaiian shirt.It is thought that Palaka is the origin of the Hawaiian shirt.

 

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2016年3月31日掲載文