What is Palaka Shirt?
パラカシャツって何?・・・すごく簡単に云えばアロハシャツより前にあった、ハワイの労働服。
出典:ウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons)
パラカの語源はフロック
Palakaの語源はFrock CoatのFrockらしい。
フロックコートは19〜20世紀初めにかけての昼間の礼服で、前合わせがダブルなのが特徴。19世紀初頭にはプロイセン軍のウーラン騎兵隊の軍服だった紺青色(こんじょういろ)のフロックコートがイギリス人などにも好まれ各地に広まった。
やがて常装用になり、その色でチェックの上着も流行した。
時も同じ頃、ハワイを訪れたイギリスやアメリカの船乗りが、フロックと呼ばれていたゆったりとした長袖のチェックの上着を着ていた。この布地が現地ハワイ人との間で取引され始める。やがてハワイ人のあいだで、フロックという言葉はパラカに変る。(frockがpalakaになった変遷はよくわからないが、ハワイ語にはFの発音がないのでPに変換され、さらに変化したということなのだろうか...)そしてパラカは、しばらくしてチェック柄の織綿布地のことを意味するようになった。
その後、テキスタイルが盛んだったマサチューセッツの宣教師がハワイにやって来た時、テーブルクロスやカーテンに使われたチェックの布地が大量に入ることになる。その布がシャツを仕立てる生地に使われるようになった。
これがパラカの語源・起源のようだ。
PALAKAといえばARAKAWAS
19世紀中頃、サトウキビ栽培が始まり、1851年に、その労働力として中国人移民を招致。1868年(明治元年)には、日本からも153名がハワイに渡る。1898年にハワイはアメリカ合衆国に併合。1900年には契約労働も廃止された。
1904年、沖縄から移住してきたゼンパン・アラカワは、ワイパフにあるサトウキビ農園でWATER BOY(飲み水配給係)として働き始める。その後、アラカワは1台の足踏み式ミシンを手に入れ、食料を運ぶためのカウカウバッグと、足袋を製作する商売を始めた。彼は既成のシャツやズボンをほどいては縫いもどすという独学で、縫製をものにした。このまにあわせの仕立屋で生産された商品の中には、パラカのワークシャツもあり、1枚75セントで売られていた。この仕立屋は、後にハワイ最大のデパートとなる。ARAKAWASの創業は1909年(明治42年)。
ゼンパンには5人の息子と4人の娘がいた。後を継いだのは1922年(大正11年)生まれの五男のゴロー・アラカワ氏。ARAKAWAS STOREは、惜しまれながらも1995年(平成7年)に閉店した。
PALAKAの繁栄と衰退、そして復活
パラカはその耐久性、涼しさ、デザインで高く評価され、1920年代(大正9年〜)、サトウキビ・プランテーションで働く移民たちや、パニオロ(カウボーイ)などのあいだで大流行した。当時は青一色で作られていたため、日系移民にとっては、着物や浴衣の格子柄や絣(カスリ)を連想したのかもしれない。また、その流行はそれだけに留まらない。1932年(昭和7年)のホノルル商工会議所の貿易商工業開発委員会の報告によれば、「パラカとセーラー・モクス(ブルーデニムのズボン)は、国民的な服装に近いもの…ハワイの象徴的なものとなった。よそ者がハワイの象徴として想像するようないわゆる浅黒い娘が着ている腰みのを見ることは実際にはほとんどないが、パラカとセーラー・モクスは、島中の人のタンスに入っている。肉体労働者はパラカを着て働き(特にカウボーイといえばパラカだ)港湾労働者はパラカを着て造船所で働く。近年では、ハワイの最上流階級もワードロープにパラカとセーラー・モクスを加えた。若者はそれを着て学校へ行き、遊び、フットボールの試合へ行き、ハウスパーティー、カクテルパーティー、ビーチパーティーへも出かけた。」とのこと。しかしその繁栄も、レーヨンのハワイアンシャツ誕生、第二次世界大戦、ポリエステル混のハワイアンシャツの台頭、極めつけはARAKAWAS STOREの閉店で、現在ではハワイでもお目にかかる事はほとんど無くなってしまった。
時を経て2012年、名古屋の"ISHIHARA"が国産でパラカ生地を復活。色は赤。2013年には本来のブルーと生成りでビンテージ感を出したパラカ生地を製作。2019年には綿35%とポリエステル65%で織られた、いわゆるTC素材のパラカ生地を国内生地メーカと国内で製作した。また、2020年にはこれまで皆無だった白のパラカ生地(TC)を製作。普段着はもちろん、パウスカート、カヒコの衣装などでも使用しやすく人気が出ている。